家紋や名字、その他「和」に関するコラム
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加藤紘一の家紋
1939年6月17日 – 2016年9月9日、 政治家。
愛知県名古屋市で出生。山形県鶴岡市で育つ。父・加藤精三は衆議院議員。東大法学部卒業後の外務省に入省。1972年に衆議院議員に初当選。宏池会に所属。内閣官房長官、防衛庁長官を歴任。
家紋は蛇の目紋。 -
日本の名字・家紋大事典 | 名字と家紋のルーツを一挙収録
世界にも例を見ないほど、数多くの名字を有する日本。日本国民のすべてが先祖代々の名字を有し、ほとんどの家に家紋が伝えられています。
名字の多くは遠い故地や血筋に由来し、家紋も各家の起源を表しています。名字・家紋の成り立ちを知れば、先祖はどこで、何をしていたのか?が見えてくるかもしれません。
本事典は名字・家紋研究の第一人者監修のもと、百科事典で定評のある平凡社が編集・制作。まさにご家庭に1セット必携、孫子の代まで大切に受け継ぎたい決定版豪華書籍です。
あなたもぜひこの機会にご愛蔵ください。 -
ローソンの家紋ビスケットに歴女歓喜
ローソンで販売されている武将の家紋ビスケットが歴女の話題に!
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの有名な武将の家紋22種類がパッケージングされている。武将の一覧表も載っているのでちょっとした歴史の勉強になるかも?。
詳しくは@niftyニュースを -
大江卓の家紋
1847年11月2日 – 1921年9月21日、政治家・実業家。
土佐国幡多郡柏島出身。後藤象二郎は義父にあたり、妻は後藤象二郎次女、小苗。土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。第1回衆議院選挙において当選。大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させた。
家紋は三つ松紋。 -
山本宣治の家紋
1889年5月28日 – 1929年3月5日、政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。 -
水原茂の家紋
1909年1月19日 – 1982年3月26日、プロ野球選手、監督。
香川県高松市出身。高校野球、大学野球で活躍後、読売巨人軍に入団。引退後は、巨人、東映、中日で監督を務めた。巨人監督時代は在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝く。
家紋は丸に右荒枝付き三階松に株竹紋。 -
浅田次郎の家紋
浅田次郎。東京都中野区鍋屋横丁出身。本名は、岩戸康次郎。『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道』で賞を受賞。2011年日本ペンクラブ会長。
家紋に関しては、紋付き袴を仕立てる時に著作『輪違屋糸里』に因んで、二ツ輪違いに決めたという。 -
おのころ島神社(自凝島神社)
当神社は、古代の御原入江の中にあって伊弉諾命・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり、古くから「おのころ島」と親しまれ崇敬されてきました。
古事記・日本書紀によれば神代の昔国土創世の時、二神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛を持って海原をかき回すに、その矛より滴る潮がおのずと凝り固まって島となる、これが自凝島である。
二神はこの島に降り立たれ、八尋殿(やひろでん)を建て 先ず淡路島を造り次々と大八洲(おおやしま)を拓かれたと記されています。
当神社には伊弉諾命・伊弉冉命の二神がお祀りされており、縁結び、安産の神として知られています。また、この二神は天照大御神様の親神様です。
昭和57年3月に建立された、高さ21.7mの朱塗りの大鳥居が目を引きます。兵庫県のパワースポットとして有名です。(おのころ島神社ホームページより) -
太郎坊宮(阿賀神社)【滋賀県】の神紋(家紋)
御祭神 ― 太郎坊宮の神様 ―
正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神―マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノオオカミ―
太郎坊宮にお祀りする神様は、伊勢神宮の天照大神の第一皇子神(人間でいう長男)にあたります。
神様のお名前には「まさに勝った、私は勝った。朝日が昇るかのように、鮮やかに、速やかに勝利を得た」という、勝利を象徴する意味が込められています。そのお名前の通り、勝利と幸福を授ける神様として信仰されています。
古くから「神験即現(=しんげんそくげん、神様のご利益がすぐに現れる)」の大神とたたえられ、聖徳太子をはじめ、伝教大師最澄や源義経、室町幕府近江守護職佐々木六角氏などの尊崇を集めました。
現在ではプロスポーツ選手を始め、第一線で活躍する企業経営者、政治家、職人、ビジネスマンなど、業種を越えた多くの方々が太郎坊宮の大神様のご利益を仰がれます。
御由緒 ― 太郎坊宮の歴史 ―
古代日本人は、太郎坊宮の鎮座する太郎坊山(赤神山)を神宿る霊山と敬い、崇拝しました。当神社のご神徳は広く知られ、聖徳太子は国家の安泰と万人の幸福を祈願しました。伝教大師最澄も当神社にお参りし、ご神徳に感銘を受けて50余りの社殿・社坊を建立されたといいます。
また、源義経も当神社に参詣して源氏興隆を祈念したと伝わり、その折に座られた「義経公腰掛岩」が現在に伝わります。このように人々の信仰が深くなるにつれ、この霊山で修業をする修験者が多く現れます。そして、神道を基に天台山岳仏教と修験道が相交わる独特の信仰形態が確立されました。
太郎坊天狗 ― 神社を守護する天狗 ―
太郎坊宮は、正式名称を阿賀神社といいます。太郎坊とは、神社を守護する天狗の名前であると伝わります。
伝教大師が太郎坊山に社殿を建てようとした時には、山奥から現れて手助けしたといいます。
江戸時代には「太郎坊宮の夫婦岩は天狗の住まいなので、人間は行ってはいけない」と書いてある書物までありました。
「太郎」という名前は、最も優れたものや最も秀でたものに付けられる名前ですので、太郎坊天狗は人々から畏敬された存在であったといえます。そのため、太郎坊天狗が守る神社、太郎坊の宮となり、やがて太郎坊宮が定着したと思われます。
滋賀のパワースポットとしてとても有名です。 -
戸隠神社【長野県】の神紋(家紋)
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。
(戸隠神社ホームページより)