家紋や名字、その他「和」に関するコラム

  • 種子島時堯の家紋

    種子島時堯の家紋1528年 - 1579年10月21日、 種子島の領主。
    種子島氏の第十四代領主。島津氏に属した。種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲製造に成功。種子島銃は、戦国時代に大きな影響を及ぼす。画像は青山霊園の種子島家分家の墓所にて撮影。
  • 伊達成実の家紋

    伊達成実の家紋1568年 - 1646年7月16日、 武将。
    信夫郡大森城主・伊達実元の嫡男。読みは、だてしげざね。伊達政宗の重臣で、仙台藩一門第二席・亘理伊達氏の初代当主。一時、伊達氏を去るが、その際、上杉氏や徳川氏からも声がかかったという。家紋画像は、「成実三昧」より。

    家紋は竹に雀紋
  • 竹内好の家紋

    竹内好の家紋1910年10月2日 - 1977年3月3日、 中国文学者、評論家。
    長野県南佐久郡臼田町出身。魯迅の研究・翻訳や日本文化研究を行う。大アジア主義の視点から日本軍の対アジア侵略戦争を劇しく糾弾。主著は『魯迅』『中国の近代と日本の近代』『近代の超克』。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

    家紋は竹笹に向い雀紋。
  • 田尻稲次郎の家紋

    田尻稲次郎の家紋1850年8月6日 - 1923年8月15日、 法学者・政治家。
    薩摩藩京都上屋敷で出生。日本初の法学博士。日露戦争時に戦費調達、債務処理に功績をあげ退官後、東京市長を務める。また、専修大学創始者の一人。家紋は田尻の「田」と稲次郎の「稲」から「稲妻」を連想して作った。画像は護国寺にて撮影。
  • 高村倉太郎の家紋

    高村倉太郎の家紋1921年 - 2005年11月21日、 撮影監督。
    東京都中央区出身。映画撮影監督。日本映画撮影監督協会名誉会長。「俺は待ってるぜ」「幕末太陽傳」「ギターを持った渡り鳥」「一杯のかけそば」など娯楽作品を中心に計約140本を撮影した。家紋の丸に抱き茗荷紋は亀戸の東覚寺にて撮影。
  • 大砲万右エ門の家紋

    大砲万右エ門の家紋1869年12月30日 - 1918年5月27日、 大相撲力士。
    角田県刈田郡大鷹沢村出身。本名は角張萬次。第18代横綱。現役引退後は年寄・待乳山を襲名。98勝29敗51分4預138休。優勝相当成績2回。当時史上最長身の横綱。常陸山ですら彼には苦戦し当の本人も常陸山が相手だと聞けば安心していたと伝えられている。

    家紋は丸に違い鷹の羽
  • 安藤太郎の家紋

    安藤太郎の家紋1846年5月3日 - 1924年10月29日、 禁酒運動家。
    鳥羽藩出身。医者の息子。安井息軒に漢学、大村益次郎に蘭学、箕作秋坪に英学を学ぶ。戊辰戦争では榎本武揚の元で戦う。維新後、通訳官として岩倉使節団に参加。外務省勤務後、日本の禁酒運動に尽力。画像は青山霊園にて撮影。

    家紋は上り藤紋
  • 浅利慶太の家紋

    浅利慶太の家紋1933年3月16日 - 、 演出家、実業家。
    東京都出身。大叔父は二代目市川左團次。劇団四季創設者の一人で芸術総監督。『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させる。長野五輪開会式の総合演出も担当。画像は谷中霊園の浅利家墓所より。

    家紋は三階菱紋
  • 赤尾好夫の家紋

    赤尾好夫の家紋1907年3月31日 - 1985年9月11日、 出版人、放送人。
    山梨県東八代郡英村出身。歐文社(現在の旺文社)を設立。文化放送や日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)を創業。放送大学の設立にも関与。日本メディア界の発展に偉大な貢献をする。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

    家紋は丸に立ち沢瀉紋
  • 家紋を求めて(本松寺[明石市])

    本松寺の家紋本松寺の家紋元禄4年に明石藩家老斉藤甚左衛門が中心となって、船上にあった本正寺をこの地に移してきたと言われています。

    家紋を求めて 本松寺1貞享3年の明石城主松平直明の黒印状には「本松寺」とあるため、この頃名前も変わったと考えられます。

    家紋を求めて 本松寺02また、このお寺には、宮本武蔵が作庭したと言われる枯山水の庭があります。宮本武蔵は初代明石城主小笠原忠真のもとで城下の町割りを担当していたとされ、善楽寺の円珠院にも武蔵作の庭園が残ります。本松寺の庭は、大小の築山、大滝・小滝、瓢箪型の池、亀島などを配置し、見る角度によって印象が変わるように工夫されたまとまりのよい庭園になっています。家紋は楓紋。

    住所
    〒673-0846
    兵庫県明石市上ノ丸1丁目17-18