家紋や名字、その他「和」に関するコラム
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神社の神紋のはじまり
鎌倉時代に武士の間で用いられるようになった家紋は、その後、各地の神社に広がっていきます。最初は神社の社殿や祭具に文様を描くことからはじまりました。それは、神話に基づく図案や、祭神にかかわりを持つ植物なとをモチーフにするのが一般的でした。
この神社の紋を神紋といいます。
神紋は、稲荷神社、八幡神社、天満宮、諏訪神社など、神社の系統ごとに共通のモチーフが用いられました。つまり、天満宮は梅を使った神紋のバリエーション、八幡神社は巴の神紋のバリエーションというように、神紋から神様の系統が見分けられるというわけです。
後に庶民に家紋が広まった要因のひとつとしてこの神紋の果たす役割は大きかったと思われます。古代から氏神を祀っていた庶民にとって、神社はなじみ深い処であり、参拝の折りに神紋を目にし「自分の家にも紋章がほしい」と考えたのは自然なことだったでしょう。そして自家の家紋を考案するにあたって神様の御神徳にあやかろうとして神紋をまねる者があったり、それでは恐れ多いというので独自の家紋を作ったりと、家紋が数・種類共に増えていったと考えられます。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
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天満宮の梅鉢紋と三階松紋
梅を愛した菅原道真
天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真(845~903)を祭神とする神社で、梅の花を神紋としています。太宰府天満宮、北野天満宮、防府天満宮(または大阪天満宮)が三大天満宮ですが、全国には◯◯天満神社、◯◯天神という天神信仰の神社が数多くあります。
菅原道真は、学者の家系に生まれ、自身も優れた才能の持ち主でした。宇多天皇に重用され、醍醐天皇の時代には右大臣に任命されましたが、藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷され、不遇のうちに没しました。すると、途端に京では疫病が流行して病死者が出たり、天災で死亡したり、異変が相次ぎました。これを道真のたたりだと恐れた朝廷は、京に北野天満宮を建立して、霊を鎮めようとしたのです。
以後、各地で災害が起きるたびに道真の怨霊のせいと考えられ、天神信仰は全国に広まりました。やがて、「道真たたり説」が忘れ去られ、天満宮は学問の神様として親しまれるようになりました。
伝説から生まれた梅と松の神紋
生前の道真は朝廷の梅を愛し、京を去るときに「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌を詠みました。太宰府天満宮には、道真が愛した梅が、主人を想ってひと挽のうちに大宰府に移動したという飛梅伝説が残っています。
また、北野天満宮には、「われを北野でまつれば、その地に松の種子をまく」とのお告げ通りに松林が出現したという伝説もあります。松の木を3本重ねた三階松も、天満宮の神紋に用いられています。
(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
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商売繁盛の神・稲荷大社の稲紋
秦氏が創設した稲荷神社
京都の伏見稲荷大社を総本山とする稲荷神社は、現在、全国に約3万社あるといわれています。稲荷神社の神紋は抱き稲紋(稲荷抱き稲紋とも) で、伏見稲荷大社の神紋は左廻り稲の丸紋の変形で、古代の伝説がもとにつくられています。
その伝説とは、秦伊侶具という人が餅に向かって矢を射たところ、餅が鳥になって山へ飛んでいき、地面に降りると今度は稲に変わりました。これを見て伊侶具は、鳥が神だと思い、稲の生えた場所に神社を建ててその鳥を祀りました。このとき建てた神社が伏見稲荷大社であり、神紋に稲穂が用いられたというわけです。伏見稲荷大社は、和銅年間(708~715)に創建されたといわれています。
伏見稲荷大社をつくったのは、古代豪族の秦氏の一族といわれています。秦氏は、もとは朝鮮半島から渡来した人の一族で、京都の太秦に本拠地をおいていました。秦氏の一族は全国に広がり、惟宗氏、薩摩島津家、宗家、長宗我部家、川勝家、東儀家などに分かれました。
江戸時代に信仰が庶民に拡大
稲荷神社は、五穀豊穣の神様とされていましたが、江戸時代になって商業が発達すると、商売繁盛の神様とされるようになりました。この頃から商人の間で稲荷信仰が流行していきます。信仰の広がりとともに、彼らの間で、稲荷神社の神紋である稲の紋を使った家紋も用いられるようになりました。また、各地に散った秦氏の支配下にあった人々も、のちに稲紋を家紋にしています。
(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
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武士の守り神・八幡宮の巴紋
武運を願い八幡神社を信仰
八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社とも)は、応神天皇、神功皇后、比売大神を祀る神社です。総本社の宇佐神宮(宇佐八幡宮)はもとは土地の氏神でした。それが、のちに八幡神が仏教保護の神とされ、全国の寺が守護神として祀るようになったのです。
三大八幡宮のーつとされる鶴岡八幡宮は、1063年に河内源氏2代・頼義が、氏神である京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜に勧請したのが
はじまりです。その後、源頼朝が宮を現在の場所に移し、幕府の守り神として鶴岡八幡宮を創建しました。八幡信仰が大きく発展したのは、武将が崇拝するようになってからです。
(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
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武家の守護神・諏訪神社の家紋は梶と鎌の2つの神紋
梶と鎌の2つの神紋
諏訪大社は全国にある諏訪神社の本社で、長野県の諏訪湖を挟んで南北に、上社と下社の2社があります。諏訪神社には、梶紋と鎌紋という2つの神紋があります。梶はクワ科の落葉樹で、紙の原料にも用いられる植物です。古くから神聖な植物とされ、梶の皮の繊維でつくった布が神事に用いられるほか、葉自体もや神事でお供えものを感る食器の代わりに使われていました。また、七夕になると、貴族たちが梶の葉に願い事を書いたともいわれています。なかでも、諏訪大社の梶紋は、3本の梶の木を描いたもので根つき三本の梶紋と呼ばれています。また、諏訪神社には、鎌をかたどった神紋を用いているところもあります。鎌は古来、農耕の神様とされ、魔除けの力があるとして、神様への俸げものに用いられていました。
武士に信仰された諏訪神社
諏訪大社は、平安時代の武人・坂上田村麻呂が蝦夷を平定する際、出陣の前に参拝していたことから、「日本第一大軍神」として武家の守護神とされ、軍神の紋には梶が用いられました。源頼朝も諏訪神社を信仰していたといわれています。諏訪大社の分社である諏訪神社は、全国に1万社以上あり、主に武士の聞で信仰が広まりました。全国の諏訪神社の多くが梶や鎌の神紋を用い、諏訪信仰の武士の間に梶や鎌の家紋が広まりました。。
(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
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熊野信仰の総本山・熊野神社の家紋(神紋)
神話のカラスが神紋に
和歌山県の熊野三山の神紋には、三つ足烏紋という3本足のカラスが描かれています。これは、「神武天皇が大和を平定するため、熊
野に上陸した際、巨大なヤタガラス(八咫烏)が現れて、大和まで導いた」という『古事記』や『日本書紀』の記述に由来します。
ヤタガラスの「ヤタ」は、大きいという意味で、神紋のカラスの足が3本あるのは、通常のカラスとは違う神聖なカラスであることを示しているとされています。カラスは熊野神社の神の使いであるとされ、今でも熊野信仰の信者はカラスを神聖なものとして扱っています。
「ヤタガラス」と呼ばれる火縄銃
熊野神社の信仰は、中世になると山伏(山の中を歩いて修行する修験者) によって全国に広められました。ヤタガラスは、熊野神社の神職を務めた鈴木家や、熊野信仰を全国に伝えた穂積家の一部が家紋として用いたほか、熊野神社を信仰した人々も家紋としています。
そのほか、戦国時代に大量の鉄砲を製造し、傭兵集団として活躍した雑賀衆の指導者・鈴木家もヤタガラスを守り神としており、旗などに描いていました。鈴木は地名から雑賀とも呼ばれます。
雑賀衆は鈴木孫一(雑賀孫市)のもとで、10年もの間、石山本願寺に味方して織田信長と戦い、織田軍を苦しめました。雑賀衆が製造した鉄砲は「ヤタガラス」と呼ばれていたといいます。
その後、雑賀衆は秀吉との対立などを経て、各地に散らばり、歴史から姿を消しており、現在でも謎の集団といわれています。
雑賀孫市が加勢した石山本願寺の定紋もヤタガラスです。3本足カラスの神話は中国や高句麗、ギリシアなど、世界的に広がっています。
(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
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寺院の家紋(寺紋)のはじまり
開祖の家紋からつくられた寺紋
寺院の紋章である寺紋は、神社の神紋にならう形でつくられました。紋の種類は神紋に比べて極端に少なく、同ーの宗派が同じ寺紋を用いることが一般的です。
寺紋の多くは、その宗派を開いた人物にちなんでつくられています。鎌倉時代に日蓮宗を聞いた日蓮は、井伊家の出身であることから、井筒(井桁)に橘という寺紋を用いています。
井伊家は、戦国時代には徳川家の家臣となって活躍し、このときも井筒(井桁)に橘の家紋です。江戸時代には彦根(滋賀県)藩主となり、幕閣の中核を担いますが、のちに家紋は丸に橘となっています。
時宗の寺院は折敷に三文字紋です。これは開祖・一遍が、この図案を家紋とする伊予(愛媛)河野家出身であることが由来とされています。河野家の氏神が大山祇神社(大三島神社)であり、この神社の神紋も折敷に三文字(実際は少しデザインが異なる)になっています。
教義をもとにつくられる寺紋も
真言宗の寺院の多くは、2つの輸を合わせた輪違紋を寺紋としています。輪違紋は、真言宗の教義にある胎蔵界と金剛界を意味する図案とされています。
密教系の寺院では、仏具の輪宝をかたどった輪宝紋を用いることが多く、不動明王など五大明王を祀る寺院の寺紋となっています。
そのほか、宗派を問わず、卍を寺紋に用いる寺院も多く、仏教徒が卍を家紋に用いることもあります。
輪宝は真理をもって世界を治める理想の王の七宝の一つ。戦車の車輪が由来ともいわれ、現在のインドの国旗にも描かれています。
(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
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戦場で目立つ足利家の家紋
軍旗から生まれた二つ引両
室町幕府の初代将軍・足利尊氏(1305~1358)は、清和源氏の流れを汲む武士で、鎌倉時代には幕府の御家人として活躍した一族の出身です。のちに反鎌倉幕府の兵をあげて、六波羅探題という京都におかれた幕府の重要な拠点を滅ぼしました。後醍醐天皇と協力して幕府を倒したあとは、ひるがえって後醍醐天皇を吉野に追放し、室町幕府を開いて将軍職に就きました。
足利尊氏の家紋は、二つ引両という丸に2本の線を引いたものです。鎌倉時代初期、武家の棟梁である源頼朝が戦場で白旗を用いていたため、同じデザインの旗を使うことを遠慮して、足利家は旗に線を入れて二つ引両にしたとされています。
家紋でも争ったライバル・新田家
清和源氏(河内源氏)の源義国を先祖に持つ新田家は、大中黒という家紋を用いています。これは、新田一つ引両紋ともいわれ、丸に1本の横線を引いたものです。
ライバルであった足利家が二つ引両紋だったのに対し、横線が1本しかない新田家は、家紋に引け目を感じていました。そこで、足利家より優れた家紋にしようと、真ん中の横線を太く描くことで、縁起のよい大中黒という紋にしたといわれています。
足利家が室町幕府を開いたあとは、足利一族の吉良家、細川家、斯波家、今川家などが次々に足利家と同じ家紋を用いるようになりました。足利一族の血をひく最上義光も二つ引両の家紋を用いています。
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徳川家の独占となった葵紋
加茂神社の葵を家紋に
徳川家の家紋は徳川葵とも呼ばれ、ワマノスズクサ科の多年草・フタパアオイの葉を図案化したものです。葵は古くから神聖なものとされ、上賀茂神社と下鴨神社からなる京都の賀茂利時土では、毎年5月15日に行われる祭りを葵祭と呼んでいます。葵祭は牛車や衣冠などをアオイの葉で飾っていたことからその名がつけられました。
賀茂神社の神紋は、二重葵という葵を写実的に表したもので、賀茂葵とも呼ばれています。賀茂神社の氏子である丹波西国家のほか、三河松平家とその家臣である本多家も葵紋を用L、ています。三河松平家出身の徳川家も、賀茂神社と関係があったと推測されています。
徳川・松平家が青いもんの使用を独占
徳川家康は、源氏の子孫であると称していましたが、家紋は源氏ゆかりの文様ではなく、葵を用いていました。家康が将軍になると、将軍家は三つ葵という3枚の葵の葉の文様を家紋とします。
そして、徳川・松平家以外の者がむやみに用いることを厳しく禁止して、葵紋を神聖化しようとしました。しかし、家康家臣の本多忠勝は「自分の先祖は賀茂神社の神職である」と、葵紋を使用し続けましたが、デザインは徳川家と異なる本多立ち葵紋となっています。
尾州徳川、紀州徳川、水戸徳川のいわゆる徳川御三家では、徳川葵紋を変化させた三つ葵紋のほか、紀州六つ葵、水戸六つ葵も使用しています。また、徳川家の本流である松平家も、将軍家とデザイン違いの三つ葵や葵紋のバリエーションを用いています。
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子孫繁栄の北条家の家紋(三つ鱗紋)
美女に化けた蛇が残した鱗
鎌倉時代に幕府の執権として活躍した北条家の家紋は、三つ鱗という三角形を3つ並べた文様です。この家紋は、北条家に伝わる伝説にもとづいてつくられています。
その伝説とは、「北条時政が、江ノ島(神奈川県藤沢市)の弁財天に参拝したところ、美女が現れて子孫繁栄を予言した。美女は大蛇に化けて海に消え、その地に3枚の鱗が落ちていた」というものです。
鎌倉幕府で権力を握った北条家
北条家は桓武平氏の出身でありながら、北条時政の長女・政子は、源氏の源頼朝と結婚。時政は当初政子の結婚に反対したものの、政子の意志に負けて結婚を許し、結果的には、頼朝の男となることで鎌倉幕府の権力を握ることになりました。
後醍醐天皇や足利尊氏によって鎌倉幕府が倒されたときに、北条家の嫡流は戦死または自害して滅亡しましたが、その残党が全国各地で生き残りました。
一方、戦国時代に小田原城の城主となって活躍した北条氏は、執権北条家の遠い血縁にあたり、直系とはほとんど関係がないことから後北条氏と呼ばれています。
桓武平氏流伊勢家の出身の伊勢盛時が関東地方に勢力を拡大したとき、鎌倉の北条の名を利用しようと考えて、北条早雲と名乗ったことが後北条氏のはじまりです。早雲は、北条氏の家紋である三つ鱗の三角形の高さを少し変えた家紋を用いています。
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