家紋や名字、その他「和」に関するコラム
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一の谷の合戦が武士の家紋のはじまり
源頼朝の命により武士が家紋をつけたのは、逆落しで有名な「一の谷の合戦」(1184)(鵯越の説もある)でのことといわれています。
鎧直垂(よろいひただれ)と旗に家紋をつけたことで、誰が戦功者か、一目でわかるようになりました。当時多くの者は家紋を持っていなかったので、頼朝が紋柄を指示し作っていました。ちなみにこの一の谷の合戦では、平氏側も家紋を用いています。
合戦場では遠くから見ても判別しやすいように、また勇猛さを示す意味でも大胆で力強い、シンプルな図柄が好まれました。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
のちに鎌倉幕府が成立すると、幕府は御家人の名字を登録する際に家紋も一緒に登録させました。こうやって平安貴族の印は御家人の家紋となり、それを真似て御家人以外の武士にも家紋が広まっていきました。
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日本十大家紋の一つ「藤紋」
藤はマメ科の蔓性落葉木本で山野に自生している植物で、4月から5月にかけて紫・白の蝶形花をつけます。藤紋はこの藤の葉と花を紋章化したものです。
藤は奈良時代から鑑賞花として親しまれており「万葉集」には20部首の歌があります。その後、平安時代には藤花の宴が多く催され、当時栄華を極めていた藤原氏と藤花の関係はこの頃から深い関わりがあったと考えられます。
当時の藤花はリアルに描かれていましたが、その後徐々に丸形に変化し適度なディフォルメを取入れた多くのバリエーションを持つ家紋に移行したものと思われます。
形状を分類すると、一つ花房(藤輪、一つ藤の丸)、二つ花房(上がり藤、下がり藤、二つ藤巴)、三つ花房、四つ花房、五つ花房、六つ花房となります。但しこれは花房の数によって分類したもので、その他花の数、軸に付く数など色々な種類がみられる。
使用家としては、讃岐の大野氏が下がり藤丸に三階松を使用したのが史籍上最初で、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏が下がり藤に文字を加えた紋を用い、他に美濃の伊賀氏、播磨の小寺氏なども『見聞諸家紋』に載っている。
その他、公家の九条、二条、一条、醍醐など多くの諸家も藤紋を用いていました。
県別にみますと藤紋は、愛知県、静岡県に多く、石川、富山、新潟件などにはあまり多く見る事が出来ません。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「片喰紋」
片喰はカタバミ科の多年草で路傍に自生している。茎は地面を這うように伸び、葉はハート型をしており3枚ついています。
春から秋にかけて黄色の小さな花が咲き、繁殖力も旺盛です。また、昔は鏡を磨くのにもちいたので鏡草とも書きました。
家紋に採用された理由としては旺盛な繁殖力からとも考えられますが、その葉の優美な形から用いられたという説が正しいのではないでしょうか。
紋章の形としては葉が3片ありますので当然、三葉片喰が主体となっていますが中には一葉、二葉などもみられます。
片喰紋には葉と葉の間に剣を入れた剣片喰紋がありますが、現在ではこちらの方が多く用いられています。
使用家としましては『見聞諸家紋』では長曾我部、肥田、中沢など、『関東幕注文』には上泉、妹尾、河田などの諸氏が載っており、戦国時代には宇喜多氏も用いました。
県別では愛知、兵庫県や京都、大阪府に多く、鹿児島、宮崎県などではあまり見られません。
(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「柏紋」
柏は山野に自生するブナ科の落葉高木で、どんぐり状の堅果をつけます。家紋はこの柏の葉、枝、幹を紋章化したものです。
柏の葉は古くから食器の代用として用いられており、その後神事にも用いられるようになりました。このため人々に尊重され、食物や木の葉を司る御食津神は柏の木に宿ると信じられ、『源氏物語』の柏木の巻(第36帖)となりました。またこれらの理由より神官の家紋として発展してきました。
紋章の形状としましては一葉から九葉まで様々にあり蔓、剣、熨斗などをつけたものなども見られ、その種類はバラエティーに富んでいます。
古くは『前九年合戦絵巻』の光貞陣中の楯に三葉柏を描いた物が登場し、葛西清重が三つ柏を用いたのが初めといわれています。その後熱田神宮の大宮司をはじめ、野間氏、上林氏、山内氏などが採用絵していきました。
秋田、青森、茨城、兵庫県などに多く見られ、山口、愛知、京都などでの使用家は少ないようです。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「木瓜紋」
木瓜紋は胡瓜の切断面を象ったもの、木瓜(バラ科に属するボケ)の切り口を象ったもの、神社の御簾の周囲にめぐらした帽額(もこう)という布のこと、など諸説様々ですが、鳥の巣を模したものという説が正しいようです。鳥の巣つまり卵は子孫繁栄につながるとして多く用いられたものと考えられます。
形状、種類は多くその数1,000以上ともいわれ、通常、外枠、内枠、中の部と3つに分かれており、外枠は鐶形の花弁風で3葉から8葉まであります。
使用家は朝倉氏、織田氏、海老名氏などと非常に多くあり、現在でも鷹の羽とともに一、二を争うほどの代表的紋です。
県別にみますと、石川、富山、福井県に多いですが、これは越前国朝倉氏の影響が大きいのでしょう。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「蔦紋」
蔦はブドウ科の蔓性落葉植物で、日本、韓国、中国に分布しています。夏には黄緑色の小花を付け、秋には紅葉して美しい植物です。蔦紋は葉を象ったものが大半ですが、花を描いたものも見られます。
家紋に採用された理由としては、その風趣による美しさから、また他の物にまとわり付き繁殖する性質からといわれています。
形状としましては、一葉、二葉、三葉からなるもの、葉と蔓からなるものがほとんど。稀に花からなるもの、他の紋を象ったものなどがあります。
使用家をみますと椎名、富田、高安氏の家紋が歴史上初めて現れ、徳川時代に急速に増加し160家以上が用いていました。
県別では富山、石川、新潟県が特に多くみられる。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「桐紋」
桐は古くから栽培されており、我が国原産とされているゴマノハグサ科の落葉高木です。
材質は軽くて狂いが少ないため、箪笥、琴などに多く利用されています。
古代から中国では桐は瑞木といわれ、優れた帝王が出現する時に姿を見せる鳳凰がとまるめでたい木とされています。この瑞祥的な意義は我が国では白桐に当てはめられ伝えられています。
このように高貴な文様として家紋に用いられ、代表的な家紋の一つとなり使用家も多く、皇室の幅紋的紋章となっているほか、日本国の紋章としても使用されています。
形状分類としましては五三の桐、五七の桐などのように蕾の数、または太閤桐、乱れ桐などのように特殊な形により分類されています。
使用家は足利尊氏にはじまり(異説あり)、吉良、細川、山名、一色などが用いておりました。また秀吉もこの紋章を重用し身の回りの多くの物に桐紋をつけておりました。
広島、岡山、愛知県などに多く、秋田、新潟県などではあまり見かけません。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「茗荷紋」
茗荷はショウガ科の多年草で山野に自生しますが、多くは栽培されています。独特の芳香があり、食用とされています。
神仏の加護を受けるといわれる「冥加」に通ずる事から、家紋として用いられたと考えられます。また茗荷は摩多羅神の神紋として用いられたので信仰的な意味もあったものと思われます。
茗荷紋と杏葉紋がよく似ているため混同されることが多く、現在でもこの過ちは往々みられます。
形状は抱き茗荷が圧倒的に多い。また使用家としては稲垣、村田、堀、中根、川口氏など。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「沢瀉紋」
沢瀉は、オモダカ科の多年生水草で、沼、池、沢などに自生します。
沢瀉文様は平安時代から特異な葉形と可憐な花が愛され、文様として広く用いられていました。家紋として採用された理由は明らかではないですが、沢瀉は「勝ち草」ち呼ばれており縁起の良い草という意味で用いられたといわれていわれています。しかし、これは武士が好んでしようしていたため、後代にこじつけられたものといえるでしょう。
沢瀉紋は種類も多く、形状も多種多様ですが、大別すると葉だけの「葉沢瀉紋」、花と葉を組み合わせたものを「花沢瀉紋」と呼びます。また葉の数は1つから9つまであり、また水を添えたものを「水沢瀉」といいます。
県別にみますと、静岡、埼玉、長野、愛知県や京都府に多くみられ、山口、宮崎、山梨、石川、鹿児島、秋田県にはあまり見られない。(引用:日本家紋総鑑など)
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日本十大家紋の一つ「橘紋」
橘はミカン科の常緑小高木で、四国、九州に自生しています。
古伝によりますと、垂仁天皇が多遅摩毛理(たじまもり)を常世(とこよ)の国につかわして、珍しい美果を求められたのが橘です。その名は伝来者の多遅摩毛理にちなんで名付けられたもので、多遅摩花から転訛したものと謂われています。
またそのデザイン性にも非常に優れたものがあり、数有る家紋の中でも鷹の羽紋などと並んで最高峰に位置すると言っても過言ではないでしょう。
形状としましては大別すると実と葉からなるものと、実と葉と花からなるものに分かれ、5葉(2葉は実の下部に対生し、あとの3葉は実のうしろに隠れるように先端のみ描かれています)のものが多く、実の数によって、一つ橘から五つ橘まであります。
使用家としては薬師寺家、小寺家が『見聞諸家紋』に始めて登場してから、徳川時代に至っては幕臣だけで100家を数えるまで増えました。
現在の分布としては大阪、和歌山、奈良など近畿地方に多く見られます。(引用:日本家紋総鑑など)
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