家紋や名字、その他「和」に関するコラム
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日本十大家紋の一つ「鷹の羽紋」
鷹は俊敏で勇猛果敢であることから、武人に好まれ、家紋として採用されたました。また、その羽は強靭なので矢羽根に用いられたことから鷹紋ではなく鷹の羽紋となったのではないでしょうか。
『蒙古襲来絵詞』に載っている古い鷹の羽紋は写実的に描かれていますが、時代が下るとともに形は長楕円形となっていき、簡素化を極めたデザインとして完成形をみた紋章といえるでしょう。
主な形状としては、鷹の羽を並べた形、鷹の羽を打ち違えた形、鷹の羽を横たえた形、鷹の羽を丸形にした形、車形に配列した形、他の紋の形にしたもの、他の紋と合成したものなど非常にバリエーションに富んだものとなっています。
鷹の羽紋が歴史上最初に現れたのは『蒙古襲来絵詞』で菊池次郎武房の旗にこの紋が描かれていました。この後、菊池家と阿蘇神社の流れだけでなく、様々な家が鷹の羽紋の使用家となって行った。
県別にみますと、宮崎県、鹿児島県、千葉県、大阪府、群馬県、愛知県などに多く見られます。
(引用:日本家紋総鑑など)
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西川きよしの家紋
1946年7月2日 - 、 お笑い芸人。
高知県高知市出身。大阪市育ち。本名は、西川潔。横山やすしとの漫才コンビ「やすしきよし」で活躍し、漫才ブームの火付け役となる。吉本興業では、桂文枝、笑福亭仁鶴と共にトップに君臨。1986年から三期18年に渡って参議院議員も務めた。
家紋は丸に違い矢。
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仁尾惟茂の家紋
1853年12月28日 - 1932年4月11日、 官僚。
土佐国出身。読みは、におこれしげ。戊辰戦争や会津戦争に従軍。維新後、大蔵省の官僚として煙草専売局長、専売局長官などを歴任。韓国政府の財政顧問も勤める。中村市の日本たばこ構内に銅像が建つ。画像は青山霊園にて撮影。
家紋は丸に二引両紋。
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中村泰三郎の家紋
1912年1月24日 - 2003年5月13日、 抜刀家。
山形県上山市出身。実践剣術・戸山流抜刀術を修練し中村流抜刀道を創始。国際居合抜刀道連盟(国際抜刀道連盟の前身)を組織。国際武道院より抜刀道十段を授与される。橋本龍太郎に山岡鉄舟愛刀「左文字」の写しを献上した。
家紋は丸に菊水紋。
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内藤昌豊の家紋
1522年 - 1575年6月29日、 武将。武田氏の家臣。
甲斐国出身。読みは、ないとうまさとよ。武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男。武田の四名臣の一人(他の三人は馬場信春、山県昌景、高坂昌信)。第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍。
家紋は丸に花菱、下り藤。
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利根一郎の家紋
1918年4月15日 - 1991年12月16日、 作曲家。
群馬県邑楽郡明和町出身。本名、恩田良武。作曲家人生49年で1200余曲を作曲。代表曲は『星の流れに』『ミネソタの卵売り』『若いお巡りさん』等。『霧氷』で日本レコード大賞獲得。勲四等瑞宝章受章。画像は多磨霊園にて撮影。
家紋は丸に片喰紋。
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土肥原賢二の家紋
1883年8月8日 - 1948年12月23日、 陸軍軍人。
岡山県岡山市出身。謀略部門のトップとして満洲国建国及び華北分離工作で活躍。「満洲のローレンス」と呼ばれていた。終戦後、特に中国からの主張によりA級戦犯として絞首刑となる。最終階級は陸軍大将。画像は護国寺にて撮影。
家紋は鬼蔦紋。
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寺内正毅の家紋
1852年2月24日 - 1919年11月3日、 政治家。
周防国出身。長州藩士宇多田正輔の三男。読みは、てらうちまさたけ。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。
家紋は亀甲に三つ柏紋。
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都筑馨六の家紋
1861年3月27日 - 1923年7月6日、 官僚、政治家。
上野国出身。名主・藤井安治の二男。西条藩士・都筑侗忠の養子となる。読みは、つづきけいろく。妻・光子は井上馨の娘。井上馨外相、山縣有朋首相の秘書官を務め、立憲政友会の創立に参加した。
家紋の尻合せ三つ雁金紋は、「華族家系大成」による。
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千葉敦子の家紋
1940年11月6日 - 1987年7月9日、 ジャーナリスト。
中国上海出身。東京新聞退社後、フリーランスジャーナリストとして活動。「フォーブス」「フォーチュン」などに寄稿。遺言によりニューヨークに財団法人「千葉敦子基金」が設立された。画像は谷中霊園寛永寺墓地にて撮影。
家紋は九曜紋。
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