家紋や名字、その他「和」に関するコラム

  • 鈴々舎馬風(5代)の家紋

    鈴々舎馬風(5代)の家紋1939年12月19日 - 、 落語家。
    千葉県野田市出身。本名は、寺田輝雄。5代目柳家小さん門下。出囃子は「本調子のっと」。落語協会最高顧問。テレビ東京の「爆笑!おもしろ寄席」の企画「ハリセン大喜利」で、ハリセン大魔王として活躍。

    家紋の鈴紋は、鈴本演芸場の提灯。
  • 力道山の家紋

    力道山の家紋1924年11月14日 - 1963年12月15日、 プロレスラー。
    北朝鮮出身。長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。読みは、りきどうざん。力士となり関脇に昇進するが突然に廃業。日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王者。日本プロレス界の父と呼ばれている。画像は池上本門寺にて撮影。

    家紋は丸に五三桐
  • 頼山陽の家紋

    頼山陽の家紋1780年1月21日 - 1832年10月16日、 歴史家、文人。
    広島藩の城下の袋町に育つ。幼名は久太郎。主著『日本外史』が幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。画像は、帆足杏雨筆の頼山陽像。

    紋付の家紋は丸に蔦紋だが、定紋は四つ又抱き鹿角
  • 横井小楠の家紋

    横井小楠の家紋1809年9月22日 - 1869年2月15日、 儒学者。
    肥後国出身。横井家は桓武平氏北条氏嫡流に発する。松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、幕政改革をする。また、私塾四時軒を開き坂本龍馬や井上毅らにも影響を与える。

    家紋の丸に三つ鱗紋は甥・横井左平太の谷中霊園墓所にて撮影。
  • 湯浅治郎の家紋

    湯浅治郎の家紋1850年11月24日 - 1932年6月7日、 社会運動家。
    上野国碓氷郡安中宿の味噌醤油醸造業者・湯浅治郎吉の長子。同郷の新島襄と親しく交わりキリスト教の洗礼を受ける。同志社や義弟・徳富蘇峰の民友社を支援。同志社、日本組合基督教会の理事。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

    家紋は丸に卍
  • 八木秀次の家紋

    八木秀次の家紋1886年1月28日 - 1976年1月19日、 実業家。
    大阪市出身。父は両替商。一般的に八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長を歴任。画像は東京霊園にて撮影。

    家紋は丸に立ち楓紋。
  • 同じ桔梗紋! 坂本龍馬は明智光秀の子孫だった!?

    家紋(桔梗紋) 明治維新の英雄、坂本龍馬の家紋といえば桔梗紋。この桔梗紋は、明智光秀の家紋としても知られている。光秀の居城地が近江坂本だったことなどから、龍馬が光秀の子孫であったという説が囁かれることがある。真相はどうであろうか。歴史人2月号では、家紋研究の専門家で歴史研究家の高澤等氏がその真偽について解説してくれている。


    「明智光秀といえば本能寺を囲んだ桔梗の紋が有名である。明智氏は清和源氏頼光流土岐氏の一族と言われているだけに、桔梗紋を用いていた。


     そして「組合角に桔梗」の紋を用いて幕末を駆け抜けた坂本龍馬は、その使用紋と、名字が光秀の居城地坂本と同じことから、光秀の娘婿左馬助光俊(明智秀満)の子孫であるという説がある。


     この説は明治16年(1883)に坂崎鳴々道人《さかざきううどうじん》が土陽新聞に連載した龍馬の伝記小説『汗血千里駒』で採り上げた。


    『坂本龍馬其人の来歴を尋るに其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め一旦美濃国関ヶ原の辺にありしが其後故ありて土佐国に下り遂に移住て郷士となり今も家の紋処は桔梗を用ゆる…』


     と、ある。しかし本当のところはどうなのだろうか。京都霊山護国神社にある坂本龍馬の墓石には「坂本龍馬紀|直柔《なおなり》」と彫られていて、龍馬自身は紀貫之の子孫と称していたようである。


     また高知県にある坂本家の墓所を見ると安永8年に死去した坂本直益以前は、家紋がまだ「丸に田の字(丸に角轡《かくくつわ》)」であったことが確認できる。そして名字も「大濱」であった。つまり明智に結びつくはずの名字や家紋は初代から受け継がれていたわけではないのである」


     ロマンのある話であるが…。


    〈『歴史人』2018年2月号「戦国武将の家紋に秘められた謎」より。〉


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    文/歴史人編集部

  • 最上徳内の家紋

    最上徳内の家紋1754年 - 1836年10月14日 、 探検家。
    出羽国村山郡楯岡村の農家出身。読みは、もがみとくない。江戸へ出て天文や測量等を学び、後に千島、樺太を探検して、『蝦夷草紙』『蝦夷方言藻汐草』などを著す。農民から商家の婿、武士へと立身出世した。画像は蓮光寺の墓所にて撮影。

    家紋は丸に洲浜紋
  • 椋梨藤太の家紋

    椋梨藤太の家紋1805年 - 1865年7月20日、 長州藩士。
    長門国の萩出身。読みは、むくなしとうた。小早川氏庶流で、小早川隆景死後に毛利氏家臣となった椋梨氏の末裔。幕末の長州藩における保守佐幕派(俗論派)の代表的人物。功山寺挙兵後、失脚する。

    家紋は六つ銀杏紋。
  • 三浦和義の家紋

    三浦和義の家紋1947年7月27日 - 2008年10月11日、 実業家、タレント。
    山梨県東八代郡御坂町出身。父方の叔母に元女優・映画プロデューサーの水の江瀧子がいる。いわゆる「ロス疑惑」が取り沙汰されたが最終的には無罪判決を勝ち取る。家紋は葬儀の時の写真にて確認。

    家紋の丸に三つ引両紋